小野先生と刑事判例研究会

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ということで、珍しく刑法ネタ。
この本の「小野先生」というのは、平野先生とか団藤先生の師匠にあたる小野清一郎先生。刑事判例研究会というのは、1938年に先生が設立された研究会です。昭和13年というのは、小野先生の師匠でありながら、理論的には激しく対立していた牧野先生が退官された年です・・・・・。
小野先生は、1986年にお亡くなりになるまで、この研究会に出られていたそうです。
で、この本は、団藤先生、平野先生をはじめとする先生方(研究会のメンバーは学者だけでなく、裁判所や検察庁の人もいるのでそういう人も書いている)が、小野先生と研究会の思い出について書いています。

まー、先生が戦後公職追放になってからも、自宅に助手など若手を集めて研究会をやっていたとか、先生のあくなき学問に対する情熱を感じさせるエピソードも多いのですが、やはり、刑法改正についてのエピソードが目をひきます。
先生は法務省特別顧問。刑法改正準備会会長として活躍されます。その結果として1974年に改正刑法草案が法制審議会総会で決定されるわけです。

そのままいくと、刑法が変わっていたわけですが、この草案は保安処分の導入とかが規定してあって、国家主義的だというので、結局、法案になることはなかったわけです。
いろいろ反対があったのですが、当時刑法学者でで一番反対したのが、小野先生の弟子である平野龍一先生だったわけです。研究会のメンバーである森岡茂さんがお書きになっていますが、「法制審議会の特別部会では、小野先生は小委員会にも出席して相当強い発言をされ、これに対して平野先生も感情を露わにして激しく反対されたとのこと」「研究会の席上では、・・・平野先生は小野先生に対して十分に師弟の礼を尽くしておられました」と書かれています。審議会ではそうとう激しいやりとりがあったそうですが、研究会ではそうでなかったようです・・・・。森岡さんはお書きになっていますが、平野先生としては、「大義親を滅する必要のある問題であったればこそ」批判されたのでしょう。

意外だったのは、たとえば、東北大の小田中聰樹先生のように、かなり左よりの先生もこの研究会のメンバーだったそうです。小田中先生もこの本に書いているのですが、「立場は全然違うが小野先生の理論の明晰さにはひかれた」という趣旨のことをお書きになっています。小田中先生は、同郷ということもあって、法務省の顧問室にも挨拶にいかれて、歓迎されたそうです。人間的にも小野先生は幅の広い先生であったことをうかがわれます。

小野先生はもちろん、そのあと東大の刑法で活躍した平野先生、団藤先生もお亡くなりになられました。極楽浄土には刑法というのはないと思います。生きている時の現世での理論的対立は止揚されたのでしょうか・・・・・。

偉大な先学に感謝しつつ今日はもうねます。