「だれが風を見たでしょう」

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ということで、セツルメントの話を書いた本。
セツルメントというのは、まー、ようするに学生がいろいろ経済的困難に直面した市民を助けるみたいな運動だったようです・・。
日本では大正時代とくに関東大震災ののちに東京帝大のセツルメントができたらしいのです。
すばらしいことです。
まー、医療相談とか、子どもの教育とか、労働者への教宣(具体的には学習会とか)いろいろの機能があったようです。
この本はいろいろそのころの歴史が書いてあります・・・。

当時学生(というか正式には卒業していたのでしょうが)の活動家として、志賀義雄さんとか赤松克麿さんとか、のちの左翼の大物が活躍されたそうです。
医療とかそのほかの話もおもろいのですが、わたしがそのなかで関心をもったのが、法律相談についてです。
ようするに当時の下町(というかもっと貧しい人が多い地帯)にいって法律相談をやっていたらしいのですが、当然学生だけでは限界があるので若手の教官に相談をお願いしていたそうです・・・。
それこそ「大家から長屋から出ていけといわれた」とか「働いたけど給料をくれない」とか切羽詰まった相談が多かったようです。

この本には末弘厳太郎先生とか穂積重遠先生とかが活躍された様子が書かれています。なんとなく末弘先生は労働法とかも専攻され、法社会学の地平を切り開いた方なので、そういう庶民的な相談もなんとなく似つかわしく感じるのですが、穂積先生というと、私のイメージでは貴族的なイメージがあったのです。というのも穂積重遠教授というと、父君はかの穂積陳重教授、おじは穂積八束教授という穂積一族の御曹司なわけです・・・。陳重先生は男爵だし、重遠先生ものちに貴族院議員になるわけですから、どうかんがえても貴族なわけです・・・。

しかし、穂積重遠先生の偉いところは、こういった労働者からの相談に対して丁寧に親身になって聞き、実に情理に沿った回答をされたそうです。
この本によるとあるとき、賭博常習犯の情状証人として裁判所に赴かれたこともあったそうです。そのときはさすがに、判事も検事もみんな教え子なので最敬礼してあまり重い刑にはならなかったそうです・・・。

まー、どうしても、歴史の教科書にも出てくる父親とおじの陰にかくれているかもしれませんが、穂積重遠先生も立派なかただったのだと思います・・・。

まー、法律というのは本来、大金持ちのためにだけあるものではなく、力のない庶民のためのものでもあるのです。この心を忘れたくないという自戒をこめてこの本を紹介します。