「教養」の時代

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あいかわらず定額給付金の支給をまちのぞみ首を長くしているミラーです。
ということで、先日、オークションで買ってしまった本。
このブログでも一度取り上げたこのある矢野健太郎先生の「教養の数学」という本であります。

最近なんか、教養ということばのパワーが衰えているような気がします。
まー、わたくしなんかは、学生時代は良くも悪くも教養主義のとりこでありまして、哲学とか歴史学とか、マルクス経済学とか当時専門であった法学とはあまり関係のないことを幅広く勉強しようとしておりました。

思い起こせば、廣松渉生の哲学書を勉強するための読書会を組織したり、まー、要するに幅広くいろんな学問をしようと思っておったのです。
思えば、こういった活動って大学でしかできないわけです。たとえば、就職してから「いっしょに、哲学を勉強する仲間」を見つけようとしても、そんなサークルはないし、先生もいないわけです。ひまもないわけです。
別に授業に出なくとも、そういった活動こそ大学でやるに値する活動だとわたくしは思っております。

どうも最近はそうではないようです。
よくある学生のパターンとしては、自分の専門を多少勉強する。余計な勉強はあんまりやらない。3年になると就活をがんばる。
適当にサークルで遊ぶ。といった感じです。

なげかわしい限りです。
だいたい、そういう人は、なにかを勉強しようとしてもそんな仲間はいず、授業の範囲を超えて学生に学問を伝えようとする先生もいないのでありましょう・・・。

ということでこの本。タイトルがいいと思うのです。よく、小学6年生くらいの子どもが「数学なんて勉強してなんになるのか」という疑問を呈することがありますが、「人生を豊かに生きるために教養として必要なんだ」とわたくしは思っております。(そんな子どもにそういってもわからんだろうが・・・。)

そもそも教養がなんで必要かというと、結構答えるのが難しい。
だいたい、下手をすると、教養のある人=「物知り」という理解がされていると思う。
私の考えるこのちがいは、ソクラテスが何年に生まれたかとか、何年に死んだかとか覚えてしっている人は物知り、しかし、それに対して、ソクラテスの「無知の知」ということの意味を深く考え、自分の生き方を見直し、謙虚に生きることができるような人が教養のある人だと思います(結構、実践するのはレベルが高いと思う・・・)。たぶん、矢野先生がこういったタイトルをおつけになった趣旨は、「数学っていうのはたんなる計算術ではないんだ。だから、技術的な観点から勉強するんでなくて、数学の背後にある思想とか歴史とかを学びとることが大切なんだ」とおっしゃりたいのでしょう(全然違うかもしれませんが・・・)

まー、わたくしも数学の勉強するたび、「微分という考え方を最初に見つけた人はなんてえらいんだ」と素直に感動し、「先人たちに負けぬよう、飲酒やその他の刹那的、肉体的快楽に身をゆだねることなくがんばろう」と生き方について考えさせられております。

数学も結構やってみると面白いんですけれどもね・・・。