映画「誰も守ってくれない」

ということで、昨日の答練の疲れから、今日は活字を読むのはやめて、映画でも見に行こうと思ったのであった。

とうぜんミーハーなものをみにいくわけもなく、慎重に社会派的映画をいろいろ調べたところ、話題の「誰も守ってくれない」という映画を見に行ってきました。志田未来さんという女優が、殺人犯の妹という役を好演している映画である。

詳しくは、素晴らしい映画なので、ご覧になることをお勧めするが、見終わって複雑に考えさせる映画なのであった。

この映画は、殺人犯の妹をメディアの強引な取材から警察が保護するという映画なのである。

うーん。警察ってそこまでやるものなのか・・・。

凶悪事件が起こると、まず、「被害者=気の毒」、次に、容疑者が逮捕されると、その時点では犯人でないにもかかわらず、「容疑者=犯人=極悪人」という報道がなされ、「容疑者の家族や学校の先生など周囲も、犯人の人格を形成した責任がある、ようするに、周りの育て方の責任」みたいな話になって、強い社会的非難を受けるのである。

まず、大事なのは、容疑者段階では、犯人ではないのだから、それに応じた取材をしないといけないのではなかろうか。

今度裁判員制度もできるし、容疑者=犯人というすりこみをなくすために、なんとか、メディアも改善のとりくみができないものだろうか。

むかしから、犯罪報道の問題はいろいろと議論をされているのだが、「○○は人権派」「○○は大新聞の手先」「○○は警察当局より」といったレッテル張りばかりで、あんまり生産的な議論がなされていると思わないのである。だいたい、犯人の素顔を暴くというジャーナリズムってなんのためにあるのかとか、容疑者の人権をなんで守らんといかんのか、と原理原則から考えれば止揚できる対立もあるのではないか。

次期東大総長のまさにご専門のところであるので、学内行政以外にもぜひとも、ますますのご活躍を祈念するものである。