社労士試験とは②

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というわけで昨日の続き。

社会保険労務士の試験で細かいことを出さないと、差がつきにくいから、数字など細かいことを出さないと仕方がない。という考え方に対しての意見。
結構、こういう考え方の人は多いかもしれない。もし、細かいことを出してなお、差のつく難しい試験にするのであれば、論文式にしたらと私は思う。そういうと、「採点が大変」といわれるんでしょうね。

■ 合格率が増えるとそんなに悪いことが起きるか。
そもそも、別に合格率が10%だろうが、20%だろうがそれでなにか、悪いことがあるのかというのが筆者の考え方。いまの試験制度からいたずらに細かい問題を排除して、合格率があがる。それによって、いまより社労士の数が増える。より、みんなが工夫して健全な競争がうまれる。サービスの質が向上する。といういい循環になるのではないだろうか。「数が増えると今いる人が大変」「価格競争が起こりすぎて、安かろう、悪かろうになる」という批判があるかもしれない。そもそもこういう人には「国家資格」というものに対する間違った考え方がある。

■ そもそも資格とはなにか
なぜ、資格という制度が生まれたのか。もともと、この世に資格というものはなかった。たとえば、医者だって、大昔はかってにできたものだと思う。そうすると、こまるのが、人によって技量がばらばらで、技術がないのに勝手に医者だと名乗って、治療行為を行い、よりひどく病気がなるなど、こまったことができた。そうならないように、「この人は、ちゃんと技量をもった人だと国がお墨付きを与えますよ、これ以外の人は偽者ですからね。ちゃんと資格を与えた人は、悪いことをしたら免許をはく奪したり、国や同業者団体でコントロールしますよ」というのが資格の成り立ちであると思う。医者に限らず、他の資格も多かれ少なかれこういった成り立ちではなかろうか。

■ いまの時代、おかみのおすみつきは必要か
たしかに、明治時代には、資格って必要だったと思う。いまと違って、識字率も低いし、悪徳な人になんとくなくだまされる人が多かったのではないだろか。たとえば、九州で、「有利にトラブルを解決してやる」と人をだましておいて、今度は、東北へいって同じことをやってもばれなかっただろう。そういう弊害を是正するために、「法律行為の代理というのは、弁護士しかできないんですよ」としたのは、国民にとっても必要であった。
しかし、いまはどうか。こんだけ、インターネットが発達した世の中である。そんな詐欺的な人がいたらたちまち、表通りを歩けなくなる。国民の意識も向上している(と思いたい)。昔は、「法律なんて、めんどくさいものはよくわからんから、専門家たる弁護士にまかせよう」と思う国民が多かったが、いまでは「自分の権利を守るために法律の知識を身につけよう」という人が増えてきていると思う。いやむしろ、昔は、「専門家に任せればOK」と思っているから、国民の法律や税金や年金に対する認識があがらなかったという側面もあるのではないだろうか。
整理すると、すべての資格は三段階において発展する。
① 国だけが知識を独占する段階―社労士でいえば、そういった資格が成立する全段階で、年金や労働に関する知識は役所だけがもっている段階。我が国でいうと社労士制度ができる前。
② 次に一定の知識を持った人を資格者として認定し、行政の手続きを代行する人としてお墨付きをあたえ、行政がうまくいくようにした段階。我が国でいうと社労士制度ができていままで。
③ 国民に広く知識が広まっていく段階。②段階の資格者は、行政の手続きの代行屋から、国民に広く知識を伝えることに役割に重点が移っていく。もし、そうならなければ、段々と職業としての意味を失っていく。

■ そろそろ次のステージへいこう
エジプトの神官は、自らの権威を高めるために、わざと一般人にはわからない言葉を使ったという。法律をよむと、それが今日の我が国においても同じだということがわかる。法律文を読むとどうかんがえても、わからんだろうなという文言が出てくる。
社労士がエジプトの神官のように、年金や労働に関する知識を独占するか、広く世に伝えていくか。
試験制度改革はこういった観点から考えていきたい。

ということで、今日は、酔っぱらったのでもう寝ます。
ちなみに今日の食事は、こんにゃくパスタ+焼酎1/2ビンです。